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(本堂入り口に掛けられた山号「長福山」)


1、開創

大徳寺は応安2年(1369)に、臨済宗東福寺派の禅寺として創建された。開山は、京都五山の東福寺第五十世として住持した禅僧、大方源用禅師(1314~1390)である。創建後大徳寺は、室町期を通して五山派の禅寺として発展する。応永33年(1426)には室町幕府四代将軍の足利義持から公事臨時課役免除をうけており、その御教書は、今に大徳寺に蔵されている。佐々木の一族で伊庭の庄修理大夫和幸が大檀那であったともいわれ、伊庭氏の菩提寺として、また幕府の保護も受けて隆盛を誇った。
寺勢の一端を伝える事柄に、当時は塔頭が十六カ院、末寺は二十九カ寺あったと寺伝はいう。

大徳寺の開山である大方源用禅師の生誕地は、現在の滋賀県東近江市伊庭町であり、俗姓は源氏である。『大方和尚法語』には「俗姓源氏、江州伊庭氏之子也」とある。東福寺の雙峰宗源禅師(1263~1335)につき修行に励んだ。応安2年(1369)に56歳で大徳寺を開創し、永徳3年(1383)70歳で東福寺五十世住持となる。このとき、大方源用禅師を東福寺住持に推挙したのは、近江守護大名の六角満高である。
明徳元年(1390)7月13日、77歳で寂した。
大方源用禅師の塔所(墓地)として、記録上は大徳寺の他に東福寺塔頭の大仙庵があるが、明治の段階で廃寺になったものとみられる。そのため現在、大方源用禅師の塔所は、大徳寺のみである。

その後、永禄年中(1558~1569)、佐々木氏没落の際兵火により境内建物が消失し、荒廃した。これより170余年間におよんで寺観が整うことはなく、その間の記録も残っていない。

2、中興
延宝4年(1676)、臨済宗妙心寺派に改派。妙心寺派の禅僧である密雲祖印により中興されたためである。寛政元年(1789)に京都花園の本山妙心寺が書き上げた末寺帳には、妙心寺の末寺として長福山大徳寺の寺名を見出すことができる。
天和3年(1683)に庫裏を建て、方丈の上棟ができたのは元禄9年(1696)。そのころの仏具が幾つか今日につたえられている。
しかし、密雲は、自らを中興開山とすることはなく、師匠の香山祖桂禅師を勧請中興開山としている。香山祖桂は雲居希膺(妙心寺第153世)の法を嗣いだ妙心寺派の禅僧である。
当山には密雲の塑像(高さ49センチメートル)が本堂に安置されているが、これは明治になって刻まれたものである。

(密雲祖印像)

3、東嶺円慈由緒寺
東嶺円慈(1721~92)と言えば、日本臨済宗中興の祖である白隠慧鶴の高弟として知られるが、大徳寺はその東嶺が剃髪をした由緒地である。第4世亮山恵林和尚の住持時代、享保14年(1729)のことである。東嶺は17歳で当山を出て日向(宮崎県)の古月禅材に師事、その後駿河(静岡県)の白隠の指導を受け、29歳で印可され白隠の法を継いだ。
亮山は東嶺を当山の住持に迎えようと再三懇請したが、東嶺はこれを固辞し、その生涯を日本臨済禅の復興に捧げられた。晩年の東嶺はたびたび当山を訪ね、亮山先師の塔を拝し、その不孝を詫びられたことが「東嶺和尚年譜」に見える。

4、近現代の展開
その後、第9世江岸恵眭和尚が住持していた明治28年(1895)6月15日、本堂と山門が新築されたのだが、そのわずか2カ月後の明治28年8月8日、落雷により堂宇は灰燼にきしてしまう。本尊、毘沙門天像、地蔵像は難を逃れた。明治33年(1900)再建事業着手。再建は大正5年になされ、本堂に還仏の入仏式が行なわれた。この時同時に開山大方源用禅師の550年忌、第八世范宗禅師50年忌の法要が挙行された。
第10世義山宗信和尚の時代、昭和10年(1935)に山門・鐘楼が再建されている。

5、平成の大徳寺
戦後40年をへて、住持は第11世泰山義光和尚の時代となる。昭和59年(1984)7月、門前に「東嶺禅師授業寺」の碑を建立し銘文を刻んだ。この碑は先住義山和尚の代に檀家となった、干拓地である大中入植者五戸の総意によりなったものである。また昭和63年(1988)には書院(善祥庵)が建てられ、平成5年(1993)には弁天池周辺の庭園(積善園)を造るなど寺観の整備が進んだ。
平成7年11月4日から6日の3日間にわたり、開山六百年遠諱並びに授戒会を厳修。
平成16年11月3日には、副住職義典宗裕和尚の晋山式を厳修。
平成22年、本堂屋根葺き替え事業を実施。
平成29年4月1日、義典宗裕和尚が第12世の住職に就任。



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